高知県名の由来(語源)/地名には水害をなくす願いが込められている

土佐藩初代藩主の山内一豊が築城した河中山城(こうちやまじょう)の「河中(こうち)」が、現在の県名である「高知」の由来です。では何故「河中」は「高知」に改称されたのでしょうか。そこには水害をなくしたいという願いが込められているのです。

「河中」が「高知」に改称された理由:水害をなくす願い

四国の南側に位置する高知県は、四国山地を水源とした四万十川などの清流によって水が豊かなことで知られています。しかし、この豊かな水の恵みが時に水害という形でこの地に暮らす人々に災いをもたらしてきました。

山内一豊が河中山城を築城する以前の戦国時代。土佐国の戦国大名であった長宗我部元親がこの地に築城を試みるものの、相次ぐ洪水によりわずか三年足らずで断念したという史実からも、この地の水害の多さをうかがい知ることができます。

1600年(慶長5年)土佐国に入国し初代土佐藩主となった山内一豊は十年の歳月をかけて築城を完成しその城を河中山城、城下町の名を河中(こうち)と命名。築城には成功したものの水害がなくなることはありませんでした。

そこで二代藩主・忠義の時代に水害を減らす祈願が行われ、この頃に「河の中」という水害を想起させる地名「河中」が改められることになりました。「こうち」という呼び名はそのまま残し「高智」という漢字を当てたのは竹林寺の高僧・空鏡です。

高智の「」はその後「」と変化し、現代の「高知」に至ります。

「高知」という漢字が当てられた「こうち」の由来

「こうち」という地名に「高智」という漢字が当てられ「高知」となった由来は上に述べた通りです。では、そもそも「こうち」という地名の由来はどこにあるのでしょうか。

土佐藩初代藩主の山内一豊は当初、土佐湾に面した浦戸城(現、高知市浦戸)に居城。しかし周囲を海に囲まれた浦戸城は土地が狭いため城下町を作るには不都合でした。そこで高知平野の中心に位置する大高坂山に築城しました。

この大高坂山は、北側に江の口川、南側に鏡川という二つの川の間=河の内側、中側に位置する山であり、その山に築城された城であることから「河中山城(こうちやまじょう」)と命名。城下町も河中山と名付けられました。

この時、城と城下町の名につけられた「河中(河内と表記する場合もあり)」が「こうち」の由来です。

なお、大高坂山に築城された城を河内山城、河中山城と命名したのは「真如寺の高僧・在川説」、「雪渓寺の高僧・月峯説」の二説が存在します。

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