「背広」の語源には6つの説がある/書物に初登場したのはいつ?

「背広」という言葉の語源は特定されていませんが、以下のような6つの説が存在します。

  1. 背筋に縫い目がなく、背幅がゆったりとした仕上げだったから。
  2. ロンドンの高級紳士服店街「サヴィル・ロウ(Savile row)」が訛った。
  3. 日本に滞在していた西洋人が礼服に対して呼んでいた「市民服、シビル・コート(civil coat)」が訛った。
  4. 上質な羊毛の産地であるスコットランドの「チェビオットヒル(Cheviot hill)」が訛った。
  5. 横浜の西洋人居留地で働く中国人の洋服職人が背中を広くとるサックスーツを「背広」と仮称したのが始まり。
  6. 中国ではベストを「背心」コートを「新背心」など「背」という漢字を用いて西洋の紳士服を翻訳したことに着想を得た。

このページではこれら6つの語源説それぞれについて解説し、「背広」という言葉が日本の文献に登場した歴史についてもご紹介しています。

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「背広」の語源、5つの説を解説

【1】背幅がゆったりとした仕上げだったから説

「背広」の背中に当たる部分には「背縫い」と呼ばれる縫い目がありますが、「背広」が日本に紹介されたばかりの頃は、この「背縫い」がありませんでした。

「背縫い」がなく一枚の生地で背中に当たる部分が作られると、背中がゆったりとした仕上がりになるのだそうです。

一方でフロック・コートやイブニング・コートなどの礼服にはその頃から「背縫い」がしっかりとありました。

3枚の生地で仕上げるため背縫いが必要な礼服は、背縫いによって身体に密着するような仕上がりとなるため、このような仕上げ方を「細腹(さいばら)」と呼びます。

この「細腹」の対義語として「背広」になった。

あるいはタイトな仕上がりとなるイブニング・コートなどと比べて背中が広く見える仕上がりだから「背広」と呼ばれるようになったというのが「背幅ゆったり説」です。

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【2】サヴィル・ロウ(Savile row)説

現在もオーダーメイドの紳士服店の老舗の名店が軒を連ねているロンドン中心部の街・サヴィル・ロウ(Savile row)

この街の地名が、現代以上に英語に不慣れだった当時の日本人の日本語訛りで変化し「背広」になったというのが「サヴィル・ロウ(Savile row)説」です。

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【3】シビル・コート(civil coat)説

シビル・コート(civil coat)とは日本語に訳すと「市民服」

19世紀末の華やかなデザインだった軍服や、イブニング・コートなどの礼服に対して、庶民が着用する服として日本に滞在していた西洋人が愛用していたのだそうです。

上述の「サヴィル・ロウ説」と同様に、シビル・コート(civil coat)が日本語訛りで変化し「背広」になったというのが「シビル・コート(civil coat)説」です。

【4】チェビオットヒル(Cheviot hill)説

この説も日本語訛りが由来です。

スコットランド地方で飼育されている羊の一種で、上質な羊毛をとれることで知られる「チェビオット種(Cheviot)」

また、その羊の放牧で知られるチェビオットヒル(Cheviot hill)という地名。

この「チェビオット」の日本語訛りが変化したとも言われています。

【5】中国人の洋服職人説

1857年(安政5年)。横浜港が開港され、多くの西洋人が横浜の居留地に住み着くようになると、西洋人と一緒に中国人の洋服職人たちも移住してきました。

手先の器用な中国人は洋服の仕立てが上手いと評判でした。そんな中国人たちが、サックスーツを「背広」と名付けそれが日本人の職人に伝わったとする説も存在します。

【6】中国語説

福澤諭吉の最初の出版物として知られる『増訂華英通語』は、当時の清国の学者・子卿が著した『華英通語』という辞典を福澤諭吉が和訳したものです。

ちなみに日本語を英語に訳す辞典を和英辞典と言いますが、『華英通語』の「華英」とは中国語と英語を意味します。

この『増訂華英通語』の中で、西洋の紳士服に関して以下のような記述があります。

vest 背心 ウワギ
new waistcoat 新背心
出典:子卿著、福澤諭吉訳『増訂華英通語』

当時の清国では、西洋の紳士服に「背」という漢字を用いていることから「背広」は中国語に由来するのではないかという仮説が「中国語説」です。

なお『増訂華英通語』が出版されたのは1860年(万延元年)。この10年後に、福澤諭吉の弟子が「せびろ」という言葉を、日本で初めて書物の中で紹介しています。

この日本で初めて書物の中に登場した「背広」については、以下で解説しています。引き続きご覧ください。

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書物に初めて登場した「せびろ」「セビロ」「背広」

【せびろ】初登場はひらがなだった

「背広」という言葉が書物に初めて登場したのは1870年(明治3年)。

当時、日本に次々と上陸した西洋の新知識を収録した『絵入智恵の環(えいりちえのわ)』という書物の中で、イラストとともにひらがなで「せびろ」と紹介されました。

しかしこの書物で紹介されたのはイラストと「せびろ」という言葉のみで、詳しい解説は一切ありませんでした。

ちなみに著者の名は古川正雄。幕末から維新後にかけて福沢諭吉の弟子の一人だった時期もある人物です。

まんとる せびろ ちよつき しやあつ つけえり ずぼん
出典:古川正雄著『絵入智恵の環』

【セビロ】ひらがなに次いでカタカナが登場

ひらがな表記とはいえ「せびろ」という言葉が書物に初めて登場したその翌年の1871年(明治4年)、今度はカタカナ表記で「セビロ」が書物の中に登場しています。

カタカナ表記の「セビロ」が登場したのは『英字訓蒙図解』というタイトルの、イラスト付き英和辞典とでも言うべき書物です。

「Gloves グロブス てぶくろ」という具合に、アルファベット、発音、日本語の意味が載っている『英字訓蒙図解』の中で「セビロ」は次のように記述されています。

Sabero セビロ せびろ
出典:松岡文橘著『英字訓蒙図解』

ちなみに「Sabero」の意味は不明。スペイン・レオン州に「Sabero」という地名が存在しますが、この地名とは無関係のようです。

【背広】漢字の初登場はひらがなの三年後

「せびろ」「セビロ」についで、1873年(明治6年)に刊行された日本初の紳士服の型紙集『服裁縫初心伝』の中でようやく漢字表記の「背広」が登場します。

「」という見慣れぬ漢字は「改」の異体字で『改服裁縫初心伝』とも表記します。

さて、この書物に掲載されている「背広」の型紙には「背縫い」と呼ばれる背筋の縫い目がありません。

背筋に縫い目がないと背中がゆったりとした仕上がりになるため「背広」という言葉が生まれたとする説がありますが、当時の「背広」は、この説の通りの構造だったようです。

俗に背広と云
出典:勝山力松著『服裁縫初心伝』

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「背広」の語源に関連する年表

1857年
安政5年
横浜港の開港により、中国人の洋服職人が日本に渡来する。
1860年
万延元年
福澤諭吉が出版した『増訂華英通語』で、西洋紳士服の中国語訳に「背」という漢字が使われていることが記される。
1870年
明治3年
『絵入智恵の環』で「せびろ」という言葉が書籍初登場。著者の古川正雄は福沢諭吉の弟子の一人。
1871年
明治4年
『英字訓蒙図解』という英和辞典に「セビロ」が登場。
1873年
明治6年
『改服裁縫初心伝』に「背広」が登場。